伊藝徳雄・ストーリー

p_a03 知識、実践と講義の中でと多彩なマリンスポーツにチャレンジできる学校がYMCA海洋科学専門学校(マリンスポーツ科)。この学校の入学がきっかけとなりヨットを開始。
 同校卒業後ヨットをどうしても続けたい想いで、ヨット関連会社でアルバイトをしながら知識や技術を身につけ、ヨットチームに所属しレース活動を開始した。
そんな生活を数年過ごした頃,50ftのレース艇を日本からニュージーランドまで回航をする話があった。
 1ヵ月以上海の上での生活は容易な事でないのは分かっていだが、海を渡って外国に行くと言う事だけで興奮していた。
 想像した以上に海は容赦無く時化た。辛くて長い航海だった。しかしこの航海で僕は確実に強くなった。胸を張って言える事実だ。
 無事ニュージーランドに到着。3ヵ月間そのまま同国に滞在し、ヨット先進国のセーリングスタイルと技術の高さを目の当たりにし新たな気持ちで帰国する事になる。その時知り合った方の紹介によりドイル・フレーザー・ジャパン(社長・長谷川氏のお世話になる)でアルバイトとセーリングの毎日。生活環境をヨット中心にするため、三浦半島の突端の油壺に住み着いた。一昔前は僕のような思いを抱いた人がこの辺りに大勢いたらしい。       
 仕事にも慣れ生活も落ち着きだしてきた95年10月。この後、僕のセーリングに大きな影響を与えてくれた人物との出会いがあった。
 原 健さんとの出会い。(アメリカズ・カップとウイッド・ブレッドの経験者)彼の影響を受けて自分自身の気持ちが大きく変った時期である。同氏より声をかけられ,96年、KYC(関西ヨット倶楽部)に所属する故南波誠氏率いる、チーム「AOBA」・アサヒ・スーパードライセーリングチームのキャンペーンに参加。
 初めて体験する世界の力。緊張と興奮でレース前は気分が悪くなるほどだった。しかしレースをこなしていく度に自分が出来ている事に気が付く。だがその一方で南波氏や原氏が求めているレベルに達していない事にも同時に気が付き期待に答えること出来ない自分が悔しかった。

 周囲には日本チャレンジのクルー、そして世界で戦っている一流のクルーがいた。一緒にセーリングすることが多くなり、いつしか自分もこの世界でプロとして生きて行きたいと思いはじめた。アメリカズ・カップと言うものが自分の中で大きくなっていった。トレーニングは普段から行なっていたが,本格的に体をつくりあげるトレーニングを始めた。

 翌年(97年)原氏率いるチーム「ファンディーション」に参加。
 常に一流のメンバーとセーリングする事で自分の能力を向上させようとしてきた。そのためにも日本チャレンジに参加し、アメリカズ・カップに挑戦する事は今後プロとして活動をするためには大きな意味を持つことだった。

p_a04 97年夏・愛知県蒲郡市にある、日本チャレンジベースキャンプに500人の夢を抱えた人が集まった。厳しいセレクションが行なわれた。

 誰にも負けない大きな夢をもっていたのは誰でもない、
自分だった。
その年の秋一通の合格を知らせるはがきが届きアメリカズ・カップを目指すクルーになる事を許された嬉しい知らせだった。

 アメリカズ・カップを目指しキャンペーンがはじまりヨット一色の生活。憧れが現実になり毎日が充実していた。時間が猛スピードで流れてゆく。時間が幾らあってもたりない。もっとトレーニングしたい、もっとセーリングをしなければ。そんな慌ただしい一年を送りオークランドへ戦いに向かった。

アメリカズ・カップへの戦いがはじまった。長く厳しい戦い・・・そして終焉。
 カップ獲得の夢は夢のままに終った・・・・
やれる事は全てやったのか?大きな疑問と脱力感だけが残った。
レギュラーとしてレースに出る事が出来なかった自分・・・
まだ上があることだけははっきりしている。
どこまで行けるだろうか?どこまでやれるか分からないがそのために自分自身に嘘をつかずに真っ直ぐに帆走(走って)行きたい。そんな想いを抱き桜が咲く日本へ帰国をした。

より多くの方へセーリングのすばらしさを!

 セーリングは勿論の事、プロとして多方面で活動を行なっています。セーリングは他のスポーツに比べて一般の方の認知度が 低くオリンピックでメダルを獲得した時でさえメディアでの取り上げられ方はわずかなものでした。 世界レベルへの技術向上 とともに国内での認知向上も大きな課題だと思う。より多くの方にセーリングの素晴らしさを理解していただきたいと思って 下ります。セーリングを始めて知ってから10年。多くの経験を今度は多くの方へ伝えセーリング全体が発展するように自分 のためにも努力してゆきたい。

Kazi

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